知人がちょっと前の面白い記事を引っ張ってきていた。
イーノ氏にはかなり共感できる。
彼が言うように、芸術は豊かな世界に支えられて初めて存在することができる「生活の中心にあるべきもの」で且つ、
経済活動に役立つような商業ベースものではないものだと思ってる。
芸術活動というのは対価を期待してやるようなことではなく、ハレとケで言えばハレの業。
ケガレが出てきたときにエネルギーを与える役割こそ、ハレの業だと思ってる。
非日常こそが日常のエネルギーを倍増させる。
近代、お金になるからと出版権とか放送権とかそう言う権利を誰かが主張し始めたあたりから
芸術は本来の存在意義とかけ離れたものになってしまったのだろうと細々と音楽活動を続けて思うようになった。
一方、重要性を認識しないで芸術や文化を育む努力を怠った国は病み、ストレスフルな社会を構築しつづける。
必要ないと思われるものこそ今もっと必要なもの。そこに気がつかないと最後は不満だらけでエネルギーの不足した社会が出来上がる。
芸術ができることは「豊かさが生む奇跡」のようなものだと思ってる。
誰かが支えてくれるから、どこかで一所懸命野菜を作ってくれるから、
どこかで電気引いたり道路作ってくれる人がいるから存在することができる。
誰もやってくれないのであれば、人がいないのであれば、文明がなければ
自分自身で毎日野菜を作って水を汲み、薪を拾うしか生きる術はない。
人がいなければ対価が生まれるはずもなく、芸術活動を飯の種にする余裕も生まれない。
奉納、催事の時に本領発揮する本来の形(ハレ)としてしか存在することはできない。
自分に言わせれば、芸術(音楽)活動は世の中全てに支えられて存在することができる「奇跡の瞬間」だ。
「奇跡の瞬間」こそが、ケという日常を営むエネルギーになると思ってる。